絶対エース・棚橋弘至の何が凄いのか?日本プロレス界の救世主!!

画像引用元:Wikipedia

今やプロレスを知らない人でも、
一度はテレビで目にしたことがある
現役プロレスラー

『棚橋弘至』
選手。

管理人管理人

あ、今回はライター:緋空さんの
棚橋弘至選手の記事かー

新日本の
『エース』と呼ばれ
現在も中心選手です。

棚橋選手は

  • 『太陽の天才児』
  • 『100年に1人の逸材』

と呼ばれ、
親しまれています。

しかし
今は万人にそう呼ばれているも、

少し前までは
『棚橋なんてダメだ』
『なにが100年に1人だ』
と酷評されることもありました。

管理人管理人

へ~そんな風に
悪く言われていることもあったのかー

しかし
【暗黒時代】
を生き抜いてきて、

【黄金時代】を
再び呼び寄せられたのは
棚橋選手の力があってこそ。

今回はそんな棚橋選手の
何が凄いのか?

なぜここまで愛されるのか?

私なりにお話しさせていただきます。

エースまでの道のり

棚橋選手は
ヤングライオンから卒業後、

鈴木健三選手と
『King of the Hills』を結成。

タッグチーム戦線へと出ていきます。

順調にキャリアを積んでいきますが、
2002年11月に

女性から刃物で刺されるという
事件にあってしまいます。

管理人管理人

あ、これ俺も知ってるよ!
別れ話がこじれて刺されたとかって
やっぱ男前は違うな(笑)

この翌年、2003年頃から
新日本プロレスは徐々に
総合格闘技路線へ足を踏み込み、

新日本の暗黒時代へと
いざなわれてしまいます。

ドーム大会のカードも
一部はタイトルマッチ、

一部は総合格闘技ルールなど
ストロングスタイル路線から
だんだん外れていきました。

永田選手、中西選手なども
その路線に巻き込まれていきますが、

棚橋選手は断固として拒否をし、
ストロングスタイルを貫いていきました。

事件から半年間の欠場後、
永田裕志選手とのタッグで
GHCタッグ王座を獲得。

2006年7月には
ブロック・レスナーが保持していた
IWGPヘビー級に挑戦予定だったが、

レスナー選手のドタキャンによって
急遽王座決定トーナメントが開催され、

決勝でジャイアント・バーナード選手を退け、
初戴冠。

しかし、
その戴冠に対しファンは賛否両論で

  • 『まだ早い』
  • 『なんで棚橋なんだ』

など怒号も聞こえ、
今は定番の『愛してます』のマイクもありましたが、
今と違い会場は無反応でした。

  • ドラゴン・スリーパー
  • ドラゴンスープレックス
  • ドラゴンスクリュー

などオリジナルのスタイルではなく
武藤、藤波のパクリだと言われ、

当時フィニッシュ技だった
スリングブレイドについても

『説得力がない』
と酷評されていました。

また当時は今のような
パンプアップはなく、

100kg台前半と
ヘビー級にしては軽く、

どうしてもジュニアのような印象を
一見して受けてしまうものでした。

しかし苦しみながらも、
徐々にファンの支持を得て、

翌年の全日本プロレス
『チャンピオン・カーニバル』に出場

準優勝で
大会MVPを獲得するなど躍進します。

2009年1月の東京ドームでは
師・武藤敬司から
IWGPヘビー級を奪取し、

この頃から『新日本のエース』
という肩書が広まり、

試合後の『愛してま~す!』締めも
定着するようになります。

そして棚橋弘至、中邑真輔を中心とした
新日本の縮図が

この辺りから
どんどん組み立てられていき、

興行のメインにも
棚橋選手が名を連ねることが多くなっていきました。

どうして棚橋選手はエースになれたのか?

新日本プロレスの
ターニングポイントとされた
2001年から2002年にかけて。

前年には
橋本真也・大谷晋二郎選手が退団し
ZERO-ONEへ。

武藤敬司・小島聡・ケンドー・カ・シン選手が
全日本へ移籍。

長州力選手、
フロントの総括責任者永島勝司氏、
佐々木健介選手、
鈴木健三選手の退団など大量離脱が起きます。

そして冬の札幌で起きた
『猪木問答』

これは蝶野選手が
当時の総合格闘技ブームの中、

プロレスではなく
総合格闘技に肩入れをする
アントニオ猪木氏に怒りを覚え、

リング上に呼び出した…
と、私は覚えています。

この時、蝶野選手も
『新日本を総合格闘技のプロモーションに利用しないでくれ』
というニュアンスで話していたのを記憶していますが、

その時に
『他の人間も怒っている!そう思うやつは出てきてくれ!』
といって出てきたシーンが、

色々なところで話題となったシーンです。

その中で1番、蝶野選手の意見に
全うだったのが棚橋選手だけでした。

「俺は、新日本のリングで、プロレスをやります」

この言葉は
総合格闘技路線を
暗にバッシングし、

プロレスをやりたいと、
だから猪木さん邪魔をしないでくれと、

この時私は感じ、
受け取りました。

その時の言葉に
誰も歓声はあげることなく、

なんだこいつ?
のような静寂でした。

プロレスから離れ
総合格闘技にうつる人は
ほとんどが古参ではなく
ミーハーな人達、

つまり古参からすれば
棚橋選手は、

当時若手の台頭とも言っていいほど。

古参からすれば、
『昔はこうだった、昔は良かった』
と語るが多く、

新しい事には目をつむることがあります。

古参は離れはしないものの、
ゴツゴツとした『ストロングスタイル』から離れた棚橋選手には
厳しい目、拒絶反応がありました。

しかし試合を通じて
だんだんと成長。

また試合外のところでの
イメージアップなどで
観客の支持を集めていき、

総合格闘技へ流れた
ミーハー層の巻き戻し、

また新規ファンの
獲得をしていきます。

また、私が考える棚橋選手の良さは
以下の通りです。

  • ファンサービスの質がケタ違い、防衛線がカードに組まれている時でもサイン会などを行うほど
  • ファンの前では常に笑顔、ファンの前では弱さを見せない
  • 全国興行が忙しい中でのメディア出演
  • 本当の努力家、筋肉のハルクアップ量がすごい
  • 近年問題視される危険な技(垂直落下系)がないのに、試合展開の組み立てが素晴らしい
  • プロレスラーを体現する身体が常に出来上がっている

今までのプロレスラー像を
覆すイメージ作りが身を結び、

棚橋選手は自身の
明るいキャラクターを押し出し、

プロレスを知らないファン層を
着実に増やしていきます。

結果、
新日本プロレスの復興を成し遂げた
文字通り『エース』となったわけです。

新日本プロレスを変えた男、棚橋弘至のまとめ

今では
チケットが手に入らない団体ともなった
新日本プロレス。

そこの中心に立つのは

  • オカダ・カズチカ
  • 内藤哲也
  • 飯伏幸太

そして棚橋弘至です。

しかし不遇の
暗黒時代、

屋台骨を支えたのは
当時のIWGPチャンピオン永田裕志選手ではなく、
まだ若手一点頭の棚橋選手でした。

そして大量離脱のあった2002年、
この年は

  • 中邑真輔
  • 後藤洋央紀
  • 田口隆祐
  • ヨシタツ選手

2003年には

  • 裕次郎選手

2005年には

  • 内藤哲也選手

が入団します。

他団体参戦ありきの
ビッグマッチ興行でさえも、

メインの重圧を跳ねのけ
輝いてきました。

また棚橋選手のスゴいところは
学生プロレス上がりで、

何も実績がなく
努力だけでここまで来たというところです。

レスリングなど
基礎的なバックボーンなどがない状態で、

運動神経だけで
テストも合格する、

そしてその後の
しごきに耐えるタフさ。

真壁刀義選手も実は同じ
学生プロレス出身で、

当時からすれば
ここまで新日本プロレスを押し上げてきた2人が、

学生プロレスあがりという事自体が
相当衝撃的なことでもありますね。

太陽のように明るいキャラクターで、
ひたすら努力を惜しまない天才。

試合だけではなく、
それ以外のところでも
本当にプロレスを愛しているからこそ、

ここまで頑張ってこられた、
まさに『100年に1人の逸材』と呼ばれても
遜色はないのではないでしょうか。

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緋空

はじめまして、プロレス全般を愛する緋空と申します。アラサーのパパで小学生の頃からプロレス観戦をはじめました。それからはプロレスにガッチリとハマって、プロレスのテレビ解説や、高校の文化祭でプロレス団体を呼びリングアナをさせていただいたり、インディー団体のリング設営を手伝ったり。あらゆることをやってきましたー。みなさまにプロレスの楽しさを伝えたく筆を執りました。詳しいプロフィール