【ジョニー・スミス】が教えてくれた信念を曲げない心

ジョニー・スミスという
レスラーを覚えているでしょうか?

90年代の
全日本プロレスで活躍した
中堅レスラーです。

当時は
スタン・ハンセンや
スティーブ・ウィリアムスなど

大型外国人レスラーが
活躍する中、

さして大柄でもない
ジョニー・スミスは
しょっちゅう負けていました。

あまり活躍していた
記憶がない人も多いでしょうが、

ジョニー・スミスは実は
凄いレスラーだったのです。

今日はそんな
「いぶし銀」という言葉が
ぴったりのプロレスラー

ジョニー・スミスの紹介です!

個性を殺し順応する凄さ

ジョニー・スミスの初来日は
1982年とかなり古いですが、

来日前は母国イギリスで
活躍していました。

初来日から
ダイナマイト・キッドの
タッグパートナーとして来日。

通常、イギリス出身の選手は
ランカーシャスタイルという
独特な関節技を得意としていますが、

ダイナマイト・キッドは突貫タイプ。

ジョニー・スミスは
ランカーシャスタイルを封印し

ダイナマイト・キッドに合わせた
ジャパニーズスタイルを習得していきます。

ここにジョニー・スミスの凄さがあります。

自分のそれまでのスタイルを
消し去って周りに順応することは
中々できたものではありません。

一般社会でも
転職先で過去の仕事のやり方に拘って
失敗するケースも多いです。

前の仕事にこだわったり
自分の常識にとらわれるために
仕事の幅が狭まっている人が多いこと。

就職するときに
必ず企業は「あなたの得意なことはなんですか?」と聞きますが、

自分の認識している個性こそが
自分を狭めている原因なのではないでしょうか?

ジョニー・スミスは
そんなことを教えてくれます。

1995年に旧知の間柄だった
ゲイリー・オブライトが参戦すると

「なぜランカーシャスタイルを使わないのか?」
とジョニー・スミスに問いかけますが、

当時の全日本プロレススタイルには
関節技がふさわしくないと判断し
封印していることを伝えます。

ジョニー・スミスは
「郷に入っては郷に従え」
という精神を正に体現していたのです。

こういった順応し生き残っていく
ジョニー・スミスには

日本のサラリーマンに通ずる
悲哀と堅実な魂を感じています。

続けていれば見ていてくれる人がいる!

ジョニー・スミスは
初来日から10年以上も
中堅レスラーとして負け役を担ってきました。

しかし転機は訪れます。

それまでマッチメークを
担当していたジャイアント馬場が

後継者に三沢光晴を指名し
興行のプロモートを譲ります。

1997年から始まった
いわゆる「三沢革命」では

中堅ジュニアだった
小川良成の抜擢や

高山善廣、大森隆男の
ノーフィアーなど

今までの
全日本プロレスでは考えられない

序列を排除した
自由な闘いが始まります。

そんな中、
ジョニー・スミスも
ついに日の目を見ます。

1997年に
ウルフ・ホークフィールド
(ジム・スティール)と共に

世界最強タッグリーグに
出場すると

初戦の三沢&秋山組を相手に
ランカーシャスタイルを解禁したのです。

それまでただの
中堅レスラーと思っていた
ジョニー・スミスの活躍に

後楽園ホールが大熱狂。

大「スミス」コールが発生し
三沢&秋山組相手に

殊勲のドローを演じます。

ここからジョニー・スミスの
ランカーシャスタイルは

「ジョニーマジック」
として評価されることに。

ただ、今では
レスラーの多様性も認められ

ザック・セイバーの様な
ランカーシャスタイルオンリーも
受け入れられていますが、

当時はあまり
その土壌がなく
受け入れられるか不安でした。

しかしジョニー・スミスは
10年以上にわたって培ってきた
ジャパニーズスタイルも兼ねそろえていましたので、

日本のファンにとって
飽きさせないランカーシャスタイルを
アクセントにしたファイトスタイルを披露。

つまりここで
自分の個性を殺していたことが
生かされたのです。

ここからジョニー・スミスの
快進撃が始まり、

アジアタッグを奪取すると
ベイダーの正パートナーとなり
世界タッグにも挑戦。

当時、フリーターだった僕は
ジョニー・スミスの変貌と戦いぶりに
心ときめかせ

「こんな人生もあるんだ」
と勇気をもらい

夜な夜な興奮していた
記憶があります。

「変化」していくことこそが
個性であり、

最も重要なことなのではないかと
考えさせられました。

ジョニー・スミスの活躍には
少なからず三沢光晴の
後押しはあったと思います。

実際にはどの程度、
三沢光晴が後押ししたかは
不明にままです。

しかし
ノアを旗揚げした三沢光晴が

最も参戦させたかったレスラーに
ジョニー・スミスを挙げていることから、

絶大な信頼があったことは
確認できています。

結局は人間性と教えてくれた

ジョニー・スミスは
その人間性も評価されています。

20年近く参戦する中、
1度もギャラ交渉はしなかったそうです。

その姿勢に
ジャイアント馬場も
三沢光晴も信頼を寄せていたと考えられます。

また、
UWFインターで活躍した垣原賢人が
全日本プロレスに参戦した際に、

リングの硬さから
膝の怪我に悩まされていました。

そこにジョニー・スミスが
「シューズをレスリングシューズにするといい」
とレスリングシューズを送ったのです。

当時は敵対グループにいた
垣原に対して見せた
ジョニー・スミスの優しさに垣原も感激。

こういった損得を鑑みない
実直な姿勢を見習いたいと思いました。

ジョニー・スミスは
日本で言うと「山田太郎」の様な
オーソドックスな名前。

その為、誰かの目に留まることもありませんでした。

それでも黙って
正直に続けていけば道は開ける。

人生において大切なことは
「その場に適応すること」と
「実直さ」であると

ジョニー・スミスから学びました。

決して大きな功績を残した
レスラーではありませんが

1人の人間の指針を決めてくれた
大切なレスラーです。

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浪速のドスカラス(管理人)

兄がプロレスを観ていた。その頃、空前のタイガーマスクブームだった。臨海スポーツセンターまでチャリで5分で行けた。初代UWF・闘魂三銃士・三沢VSハンセン…僕はなんて恵まれた時代に生まれたのだろう。当時のプロレス熱を現代に少しでもお伝えしたく筆を執りました!