不沈艦・スタンハンセンが沈んだ日【人生をプロレスに捧げた私が号泣した唯一の試合】

画像引用元:Wikipedia

突然ですが、
読者のみなさまは、

プロレスの試合で
泣いてしまったことは
ありますでしょうか?

私は、
学生時代から中年になるまで

ひたすらプロレスを
見てきましたが

試合を見て興奮したり、
満足することはあっても

泣くほど感動することって、
殆どありませんでした。

(映画やドラマを見る時は、わりと号泣するほうなのですが…)

そんな私が唯一
号泣してしまった試合が

今回ご紹介する
「日本で最も成功した外国人レスラーの一人」
でもある

スタンハンセン選手
の試合でした。

そんな私にとっての
ベストバウトを、

ハンセン選手の
経歴とともにご紹介させて頂きます!

デビューから来日まで

ハンセン選手は
ウエストテキサス州立大学卒業後、

プロフットボール球団
(アメリカン・フットボール)の

ボルティモア・コルツに
入団しますが、

最終的に解雇され、
故郷の中学校でなんと一度
教員の道に進みます。

(ハンセンが教師とかメチャクチャ怖そうw)

(若かりし頃のハンセン)

しかし、
以前から教職の収入を
不満に思っており、

大学のフットボール部の先輩であった
旧知のテリー・ファンクから声がかかり

管理人管理人

おいおい、そこの大学
すんげードリームな
フットボールチームだな(笑)

テリーファンクがいて
ハンセンもおるフットボールチームって(笑)

プロレスに
スカウトされたことがきっかけで、

1973年に
アマリロ地区で

プロレスラーとして
デビューを果たします。

同地区には、
なんと後のライバル

ジャンボ鶴田選手も
所属しており、

ともに若手時代を過ごしました。

その後
さまざまな地区を転戦し、

ブルーザーブロディ選手との
タッグなどで

全米で
人気選手となりますが、

1976年上期に
WWWF(のちのWWE)に
登場した際に、

当時のWWWF王者
ブルーノサンマルチノとの試合で

サンマルチノの首を
骨折させてしまうという
「事件」を起こしてしまい、

その遺恨劇で
WWWFのリングを賑わせますが、

以降はクラッシャー(壊し屋)の
烙印を押されしまい
対戦を嫌われ、

アメリカでの活躍の場が
少なくなってしまいます。

サンマルチノ戦後の
1977年1月

WWWFとの提携ルートで
新日本プロレスに初参戦。

同年秋の再来日からは
シリーズの外国人エースを務め、

9月2日に
アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦するなど、

  • 「不沈艦」
  • 「ブレーキの壊れたダンプカー」

などと形容され、
大活躍を果たします。

「第二のホーム」全日本移籍へ

1981年6月に
テリー・ファンクの仲介によって

テキサス州ダラスで
馬場と会談を持ち、

新日本プロレスから
全日本プロレスへの移籍を確約。

ハンセン選手の移籍は
秘密裏に行われており、

ファンばかりでなく、
当時の関係者をも
大いに驚かせました。

ジャイアント馬場選手や
旧知の中である鶴田選手や、

天龍源一郎選手らとの闘いが
当初は噛み合わない試合もありましたが、

ブルーザーブロディと組んだ
「ミラクルパワーコンビ」
は圧倒的な強さを誇り、

全日本マットでも
その強さを大いにアピールします。

その後
90年代に差し掛かると、

鶴田選手が
B型肝炎の発症により
トップ戦線を撤退。

天龍選手が新団体
SWSに移籍するなど

同年代のライバル選手が
軒並み離脱してゆくなか、

新たに誕生した若手トップ選手

  • 三沢光晴
  • 川田利明
  • 田上明
  • 小橋健太

らの
「プロレス四天王」
の壁として

ジャイアント馬場選手と
タッグを組むなど

外国人選手ながら、
まさに孤軍奮闘の活躍を見せていました。

管理人管理人

ハンセン対三沢の戦いは
いじめられていた中学生の俺の心に

本当に
「負けても立ち向かう闘志」
を与えてくれた。

若手選手らも完全に育ちきった
1999年末、
毎年恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦

ここから
「私のベストバウト」
について

ご紹介させて頂きます。

沈みゆく「不沈艦」

この年の
世界最強タッグ決定リーグ戦は、

長年の全日本プロレスファンにとって
特別なものとなっていました。

社長であり
看板レスラーの

ハンセン選手にとっての
最後のタッグパートナー

ジャイアント馬場選手が
この世を去った年でした。

この年、
ハンセン選手はなんと

今までずっと高い壁となり、
厳しく育て上げてきたライバルである

田上明選手タッグを
パートナーに指名。

田上選手は馬場選手が
特に可愛がった弟子であり、

馬場選手と同じ
赤いタイツを継承し、

大きな体で
馬場選手をほうふつとさせる技を
数多く使う選手でもあります。

ハンセン選手は、
自身の状況を「ラストチャンス」と語りました。

ハンセン・田上組は
この年破竹の勢いで決勝に進出。

対戦相手は
当時、最も勢いのあった
若手人気チーム

「バーニング」
の小橋健太、秋山準組。

ですが、
外国人ヒールであるハンセン選手に対し、

この日は異様なまでの
「ハンセン」コールが
会場を包んでいました。

そのコールとは裏腹に、
試合は一方的な展開になっていきます。

小橋選手や秋山選手の猛攻を前に、
ハンセン選手が一方的に攻められます。

誰しもが訪れる、
年齢的な肉体の衰え。

不沈艦が沈んでゆく姿に、
ファンの悲痛な叫びが聞こえていました。

鳴りやまない
ハンセンコール。

そんな中、
秋山選手が放ったスープレックスを

なんとハンセン選手は
カウント1で跳ね返し、

すぐさま秋山選手を睨みつけ、
反撃していきます。

俺を誰だと思ってるんだ?

お前らが子供の頃から、
ずっとトップレスラーの

「不沈艦」
スタン・ハンセンだぞ?

そんな表情に見えました。

自分の子供のような年齢の若手選手達が
一人前になり、

一方で衰えていく自分。

そこに必死に抗っていく
ハンセン選手の姿に、

そのプライドに、
私は涙が止まりませんでした。

結果的に
田上・ハンセン組は敗北しますが、

試合後も
ハンセンコールは鳴りやみません。

ハンセン選手は
人目をはばからず
田上選手を抱きしめ、

謝りながら
泣いているように見えました。

私が感動したのは、
鶴田選手、天龍選手がいなくなった
全日本プロレスを

外国人レスラーながら
守り続けてきた

ハンセン選手の
「想い」が
会場のファンに伝わっていたからでした。

そんな背景こそが、
一つ一つの試合を、

「ベストバウト」
に変える力なのだと思います。

ハンセン選手は
翌年2000年に引退し、

日本人の奥様
ユミ・ハンセンさんと

母国で専業主夫として
生活しています。

今回は私のベストバウトについて
一つご紹介させて頂きました。

みなさんにとってのベストバウトは、
どの試合ですか?

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マウナケアあつし

ロックとプロレスをこよなく愛する三十路プヲタ 幼少期はいじめられっこだった僕は、ある日父親にプロレス会場に連れていってもらったおかげでプロレスFANになり、強い男になることを決意。いじめっこを「ノド輪落とし」で撃退し、無事にいじめからの脱出に成功できた。プロレス観戦歴20年を超える私のかなり「歪んだ」プロレス観を書いています。詳しいプロフィールはこちら→プロフィール