みなさんの子供時代の
「ヒーロー」
は誰でしょうか?
- ウルトラマン?
- 仮面ライダー?
- ドラゴンボールの孫悟空?
人それぞれいらっしゃるのではないかと思います。
小さな頃からプロレスばかり見ていた私にとって
ヒーローは
今回ご紹介するハヤブサ選手でした。
そんなハヤブサ選手の経歴とともに、
ゆっくり振り返っていきたいと思います。
目次
不死鳥・ハヤブサ誕生まで
ハヤブサ
本名:江崎英治
1968年11月29日 – 2016年3月3日
熊本商科大学
(現:熊本学園大学)
在学中に「プロレス同好会」に入り、
学生プロレスを始めます。
大学は2年で
中退していますが、
学生プロレスは
4年間続けていたそうです。
その後1991年に
大仁田厚選手が代表を務める
FMWに入門。
昼間はアルバイト、
夜に練習する生活を送りながら、
同年5月に
素顔でデビューします。
当時から
「若手の中では素質がズバ抜けていた」
と師匠の大仁田選手は語っており、
大きな期待があったことが
うかがえます。
1993年に
メキシコ遠征に出発し、
1994年に一時帰国。
マスクマン
「ハヤブサ」
として生まれ変わり、
様々な団体の選手が参戦した
ジュニアヘビー級のオールスター戦
「第一回スーパーJカップ」
に参戦します。
そこで対戦したのはなんとあの
「獣神サンダー・ライガー」選手。
コスチュームを着たまま
舞い上がる美しい姿は、
新日本プロレスをはじめとする
メジャー団体の選手に
大きなインパクトを与えました。
新エース・ハヤブサ誕生
スーパーJカップでの
活躍後のハヤブサ選手は、
1995年に
看板選手大仁田厚の引退に伴い
ヘビー級に転向し、
一躍FMWの
トップレスラーに
躍り出ることになります。
大仁田選手の引退試合の相手も
ハヤブサ選手が務め、
実質的な
世代交代が行われました。
当初は
大仁田選手不在の
FMWに対し、
一部のファンから
すぐ倒産してしまうのではないか
など
厳しい声も
あったそうなのですが、
そんな不安を
消し飛ぶようなハヤブサ選手の活躍で、
FMWは
- 新日本プロレス
- 全日本プロレス
に次ぐ
ナンバー3の座を
確固たるものにしていきます。
しかし
「飛べるヘビー級」レスラーとしての
代償は大きく
1996年には
肘がパンクしてしまい
手術のため長期離脱するも、
団体のため
短期間での強行復帰を強いられるなど、
「不死鳥・ハヤブサ」
の体は確実に蝕まれていきます。
ハヤブサ・メジャー全日本に舞う
そんな中、
ハヤブサ選手は
大仁田選手の打診もあり
「’97チャンピオン・カーニバル」より
あのジャイアント馬場さん率いる
全日本プロレスに
スポット参戦が決定します。
馬場さんにも
試合内容を高く評価され、
気に入られたそうです。
私はこの時期に
「ヒーロー」
ハヤブサ選手と出会いました。
私は
初めて会場に観に行ったプロレスが
全日本プロレスだったこともあり
当時は全日本プロレス以外、
ほとんど見ていませんでした。
ほかの団体も
見てないわけではなかったのですが、
全日本プロレス「四天王」
- 三沢光晴
- 川田利明
- 小橋建太
- 田上明
選手達の戦いが
最も凄いと信じきっていたので、
全日本ほど
熱心に見ていませんでした。
そんな中、
全日本プロレスに参戦したハヤブサ選手を見て
立っているだけでも美しい姿、
コスチューム
(なんと、このコスチュームは全て江崎さんご自身のデザインなのです!)
マスクマンにも関わらず
美男子であることが
分かり切った風貌
そして何より
今まで見た事もない飛び技の数々に
完全に魅了されてしまいました。
それからの私は
飛び技だけのシーンを
VHSで繰り返し再生したり、
体育館のマット運動で
ハヤブサ選手のまねをしたり、
そんな事を
繰り返すようになっていました。
当時はデスマッチが怖くて、
FMWには興味を持てなかったのですが
ハヤブサ選手の試合だけは雑誌などでも
かならずチェックするようになりました。
- 全日本プロレス
- FMW
両方での活躍が認められ、
この年の年末で
プロレス大賞・殊勲賞のタイトルを受賞。
FMWみならず、
プロレス界全体で
確固たる地位を築いていきます。
満身創痍のエース
そんな
FMWの大看板ハヤブサ選手は、
なんと1999年6月に
素顔に戻り
H(エイチ)
という
レスラーに変身します。
これは飛び技を主体とする
ファイトスタイルにより、
着地の衝撃を支え続けた
江崎さんの膝が
限界に達していた
と言う事情もあったようです。
ですが、
この時期にはFMWの業績も下降し、
やはり
「空飛ぶハヤブサ」
を見たいというファンも多く
2000年からは
再びハヤブサに戻しました。
満身創痍でも飛び続ける中、
ついにハヤブサ選手の体は
限界を迎えようとしていました。
飛べなくなった不死鳥
2011年10月22日、
後楽園ホールの
対マンモス佐々木戦で
ハヤブサ選手は
試合中のアクシデント
(ラ・ブファドーラの失敗)
により頚椎を損傷の重傷を負い、
治療とリハビリに臨むために
長期・無期限の休業を余儀なくされます。
その時の映像はこちら
(衝撃的なシーンですので心して見てください)
この当時、医者からは
首から下は
一生動かないとまで言われたそうです。
あれだけ自由に動き回れた人間が、
自分で歩くことも
出来なくなってしまう気持ちは
想像を絶するものがあることでしょう。
その後、
リハビリにより、
自力で立ち上がり、
補助付きで歩けるまで回復しますが、
経営不振により
所属団体のFMWは倒産。
FMW一部選手ともに
2002年8月、
新団体WMF旗揚げにあたり
コミッショナーに就任しましたが、
その後、
離脱して個人事務所「隼計画」を設立します。
そこで彼が選んだ道はなんと
「歌手活動」。
- 飛び回ることもできない
- 歩くこともできない
それでも彼は
諦めませんでした。
ハヤブサ選手は言いました。
「自分はまだしゃべることが出来た」
今の自分の状況で
できることを、
精いっぱいやる。
飛べなくなった
ハヤブサ選手が伝える「頑張って」は
私には
より説得力を増したように思えました。
あとがき・旅立った不死鳥
歌手活動を行いながらも
リング復帰を目指すハヤブサ選手は
2016年3月3日正午、
くも膜下出血により
47歳でお亡くなりになりました。
飛び回る姿も、
歌い続ける姿も、
最後まで諦めない姿こそが
「プロレスラー」でした。
私にとってのヒーロー
「プロレスラー ハヤブサ」
の魅力が
ほんの少しでも伝われば嬉しいです。
最後はハヤブサ選手の決め台詞で
締めさせて頂きます。
「お楽しみは、これからだ!!」
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