【ザ・デストロイヤー逝く】日本で最も愛された外国人覆面レスラーその死因は

画像引用元:Wikipedia

2019年3月8日、

プロレスファンの僕にとって
大きな訃報が届いた・・・。

デストロイヤーこと、
本名:リチャード・ジョン・ベイヤー(享年88歳)が
この世を去った。

また一人、昭和を代表するレスラー
プロレス界のレジェンドがあの世に行ってしまった・・・

とはいうものの
昭和50年代に生まれた管理人は
デストロイヤーのことを詳しく知らない・・

  • デストロイヤーって得意技が4の字固めで
  • あの強盗のような覆面をかぶった
  • 覆面から栓抜きを取り出し、
  • すぐに相手を流血させて反則ばっかりしてた

レスラーじゃなかったっけ?

といった
間違った情報を勝手に思い込んでいた。

お恥ずかしい・・・

これではお亡くなりになった
デストロイヤーさんに
申し訳ないということで

デストロイヤー氏の
プロレス界における功績

日本での活動、
引退後、その死因などについて

詳しく調べて真実を語っていきたいと思います。

生い立ち

デストロイヤーは
アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローにおいて
1930年7月11日生まれである。

(ちなみに誕生日は藤井フミヤと同じ)

幼い頃や青年期の
デストロイヤーエピソードは
ネットを漁る限り全く見つからなかった。

そりゃ、そうか1930年と言えば、
昭和5年・・・

えらい古い話だもんな・・・

1930~1940年頃のアメリカは
世界恐慌真っ只中で

まぁ、想像ですけども
デストロイヤー一家も

生きていくのに大変な
時期だったんでしょうよ。

何も文献的なものは
ネットに情報がありませんでした。

プロレスラーになるきっかけ

そんな中でも
デストロイヤー少年は、
すくすく育ち

アメリカのシラキュース大学教育学部を卒業。

その後、同大学において
アメリカンフットボールのコーチをしていたが

レスリングの実績などがあることから
1954年アメリカのプロレス団体からスカウトされて
プロレスの世界に入った。

デビュー当時は
覆面をつけない素顔&本名で活動していたが
人気もいまいち・・・

プロレス史上初めてのマスクマンヘビー級チャンピオンに

デビューから数年・・・
身長もプロレスラーとしては小柄な180cm。

うだつの上がらないレスラー人生を
送っていた彼に転機が訪れる。

  • 自分のプロレスラーに向かない優しい顔立ち。
  • アメフト選手の頃に折れた前歯。
  • 当時、出場していた団体でプロレスラーのライセンスを取得していなかったため、正体を隠す必要があった。

などの理由から、
マスクマンとしてリングに上がってみてはどうか
と興行主から依頼される。

急遽、妻のガードルをマスクに改造して
1962年からマスクマンとして
リングに上がることにした。

ちなみに女性用のガードルってこんなやつ。

骨盤矯正下着ってヤツだね。

普通にかぶると、ただの変質者…
犯罪である…。

想像ですが…
恐らくデストロイヤーの奥さんが夫に

「なんでもいいから頭からすっぽりかぶれるマスクを用意してくれ!」

と言われ

急遽、夜なべして作ってくれたのでしょう…
なんという夫婦愛。

もしかしたら、最初は本人も
まさか自分のマスクが
妻のガードルでできているとは

思いもよらなかったかもしれないですね(笑)

いや、それを知っていて何かスイッチが入ったのか!?

妻の改造ガードルマスクに勃起した彼は、
それからは人が変わったかのように
破竹の勢いで連戦連勝。

ついには
1962年7月27日にフレッド・ブラッシーを破り
WWA世界ヘビー級王座を獲得。

覆面レスラー初の世界チャンピオンとなった。

こうしてプロレスラー
デストロイヤーが誕生したのであった。

日本においての活躍

デストロイヤーと言えば、
新日本プロレスや
全日本プロレスの前身である

日本プロレスの時代に
日本にやってきて

「白覆面の魔王」
として日本でも人気を博した。

当時としては
かなりインパクトのあるマスクを被って

ヒールな素振りを見せながらも
正統派なプロレスを僕らに観せてくれた。

力道山とは、
数々の名勝負を演じて

「足4の字固め」の掛け合いで
レフリーストップがかかるという
壮絶な試合を演じたこともあった。

力道山とデストロイヤーの試合は
人気カードとなり、

今でも歴代平均視聴率
第4位の64%という数字を残している。

64%って
すごすぎない!?

ちなみに日本のテレビ史上
歴代視聴率BEST3はこちら

  • 第1位 81.4% 第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日 NHK
  • 第2位 66.8% 東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか) 1964年10月23日 NHK
  • 第3位 66.1% ワールドカップ 日本×ロシア 2002年6月9日 (フジテレビ) 66.1%

そして第4位がデストロイヤー

すごい・・・

おそらく70歳以上のご年配の方なら
3人に2人は「デストロイヤー」を知っているわけだ。

力道山亡き後は
ジャイアント馬場が旗揚げした
全日本プロレスに所属し、

デストロイヤーは
馬場の人柄と会社の運営方針に対して
全幅の信頼を寄せていた。

特にこの頃、
新日本プロレスから移籍してきた
若かりしスタン・ハンセンに

「馬場のいる全日に来て大正解だ」

とアドバイスをしたという。

そしてそんな彼らは
全日のマットで闘っているのだ!

お宝映像

デストロイヤーよりも
ハンセンが気になる・・・

髪型がなんか格好いい!
一瞬、誰コレってなるレベル!

あと、この頃のプロレスパンツが
ダサすぎるなw

オムツみたいやw

この頃のデストロイヤーは、
選手兼コーチ役も担当して
若手の育成に務めた。

デストロイヤーの教え子たちに
ジャンボ鶴田をはじめ
大仁田厚や渕正信などがいる。

人物も非常にユーモアのある人で
バラエティー番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」などに出演

和田アキ子・せんだみつお・徳光和夫らと共演し、
徳光和夫には得意の足4の字固めをかけたこともある。

日本が大好きなデストロイヤー

デストロイヤーは
全日本プロレス在籍時は
日本に住居を構えていた。

そのこともあり、
プロ野球で助っ人外国人として
日本にやってくる外国人野球選手たちの
面倒もよくみていた。

ランディ・バースや
レロン・リー、レオン・リー兄弟など

日本で活躍した
プロ野球外国人助っ人たちは

いまだにデストロイヤー氏に対する
感謝を忘れないという。

すごいぜ、デストロイヤー!

現役引退から今日まで・・・

1997年、
全日本プロレスの選手として引退。

その余生を母国の
アメリカ・アクロンの高等学校で

  • 体育教師
  • 水泳教室のインストラクター

などをして過ごしていた。

2011年東日本大震災の時は
日本に駆けつけて
チャリティーマッチを行なってくれた。

2017年、プロレスラー時代から
デストロイヤーが日米両国の友好親善及び
青少年交流に貢献してきた実績が評価され、

日本政府より秋の叙勲に於いて
外国人叙勲者として
旭日双光章を受章することが発表された。

その後も静かに余生を送っていたが、

2019年3月7日、
アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローの自宅で死去。

その死因は明らかにされていないが
息子カート・ベイヤー氏が
自身がフェイスブックにてその最後を投稿。

「父のデストロイヤー、ドクターXことディック・ベイヤーが今日正午すぎに亡くなりました。自宅で子どもたち、妻に囲まれながら平穏に去っていきました」

とつづった。

デストロイヤーは
ここ数週間、病院のケアを受けていたというが
病気などの公表がなかったことを考えると

老衰が最も有力な死因なのではないかと思われる。

デストロイヤー!
天国に行って力道山とジャイアント馬場に
足4の字固め思う存分にかけてくれよ!

ということでご冥福を祈りつつ
本日は筆をおきマッスル。

晩年の穏やかなデストロイヤー素顔

死ぬほど、愛妻家で
とても優しい人物であったらしい。

というか、
この奥さんがあの変態マスクを作った張本人なのだなw
という目で

写真を見てしまうのは僕だけだろうか?

マスクを脱いだデストロイヤー

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浪速のドスカラス(管理人)

兄がプロレスを観ていた。その頃、空前のタイガーマスクブームだった。臨海スポーツセンターまでチャリで5分で行けた。初代UWF・闘魂三銃士・三沢VSハンセン…僕はなんて恵まれた時代に生まれたのだろう。当時のプロレス熱を現代に少しでもお伝えしたく筆を執りました!