【三沢光晴】彼の戦いざまに元気づけられたから僕は今、生きている!

今回は2代目タイガーマスクとして
一世を風靡し、

若くしてマットの上で
この世を去った悲劇のヒーロー

三沢光晴選手について
書かせていただきます。

きれいごとで書けば、
レスラー冥利に尽きるのかもしれません。

まだ若かったし、
大観衆の前で試合中に亡くなるなんて、
あまりにも残酷ですよね…

三沢選手の訃報を知った時は

嘘だろ…

え?え?え?

んな、アホな…

愕然としました。

勝手に涙が溢れてきました。

僕は中学の時、
いじめられていました。

毎日、毎日
学校に行くのが辛かった…。

何のために生きてるの?

こんなつらい思いするぐらいなら、
いっそ死んでしまった方が…

多感な中学生の頃の僕は
本気で自殺を考えたこともありました。

そんな時、僕は
三沢選手に出会いました。

当時、闘魂三銃士が全盛期で
みんなが武藤・橋本・蝶野と騒いでいる時に

僕は一人、全日を見て
三沢選手を応援し続けました。

ジャンボ鶴田に挑む三沢

スタン・ハンセンに挑む三沢

今でもはっきりと覚えてきます。

彼の諦めずに
何度も格上の選手に
挑み続け戦う姿勢。

いじめられて傷心を抱えた僕は

その姿勢に

俺も頑張ろう!

本当に生きる元気・勇気をもらって
いじめられていた中学時代を
生き抜くことが出来ました。

今日は僕にとって特別な存在である
三沢光晴選手について
書いていきたいと思います!

生い立ち

三沢選手は
1962年、北海道夕張市に生まれました。

しかし、
父親の仕事の都合で生まれてすぐに

埼玉県越谷市に
移り住むことになります。

中学時代から
プロレスラーにあこがれて、

高校時代には
レスリングを始めます。

高校3年生の時には
国体に出場して優勝するなど、

輝かしい成績を残します。

高校を卒業後1981年に
憧れの全日本プロレスに入門。

同年デビューを果たします。

1983年のメキシコ遠征中に、
ジャイアント馬場選手の指示を
受けて急きょ帰国し、

2代目タイガーマスクとして
日本のマットに上がりました。

2代目タイガーそして三沢光晴

三沢選手自身としては、
佐山サトル氏の初代タイガーマスクの
二番煎じになるのではないか、

また、そもそも本格派の
ヘビー級レスラーを目指していた、
という点からも、

決して望んではいなかったのですが…

三沢選手の胸中は
複雑なものがあったと思います。

社長である
ジャイアント馬場氏の指示は絶対です。

根がまじめな三沢選手は、
やむなく引き受けることになります。

プロレスラーも雇われの身です。

上司の命令は引き受けるか、
さもなければ辞めるしかありません。

会社員と同じで、
つらいところですよね。

実際、タイガーマスクとしての
アクロバティックな空中殺法を
必要とするレスリングは、

ヘビー級の体格の三沢選手には、
膝などを痛め故障を抱える大きな要因となったのです。

そんな中、1990年、
プロレス界に一つの転機が訪れます。

天龍源一郎選手が
全日本プロレスを離脱し、
他団体に移籍したのです。

看板選手を失い
全日本プロレスが存続の危機に陥った中で、

もはや目新しくもないタイガーマスクは必要ない、
そう感じていたかもしれません。

さらにはヘビー級選手としての
実力派レスラーになりたい。

デビュー当時の思いが彼を後押ししたのでしょう。

三沢選手は試合中に
突然マスクを脱ぎ捨て、

タイガーマスクとしての
レスリングに終止符を打ちます。

自分はもう
「タイガーマスクを演じる」レスラーではない。

純粋にヘビー級レスラーとして
頂点を極めたい。

そういう思いが、
彼の中ではじけたに違いありません。

試合中にマスクを取って
素顔をさらけ出したところが、

いかにも三沢選手らしいです。

全日本プロレス社長~ノア設立

1990年頃から、
日本のマットでは大きな変化がありました。

それまでは、
お互いがゆったりと得意技をかけ合ったあげく、

両者リングアウト、
あるいは反則負け、などといった、

ある意味お茶を濁して終わるような
試合が多かったのですが…

テレビ視聴率も低迷し
プロレス離れが進んでいる中、

もっと見ごたえある試合にしなければ、との思いからか、
試合内容が過激になってきました。

大技の応酬で激しくぶつかり合い、
フォール勝ちで勝負を決める。

そういう試合内容に
時代は変化していったのです。

これも、
三沢選手の選手生命を短くした要因のひとつとも
いわれています。

1999年に
ジャイアント馬場氏が死去すると、

全日本プロレスの社長を経て、
翌年に新団体「ノア」を設立します。

2009年、試合中に亡くなるまで、
ノアの社長兼トップレスラーとして
活躍し続けました。

そもそも、
三沢選手が全日本プロレスの社長に就任したのは、

他の選手らの大きな後押しによるものです。

また、翌年ノアを設立して
あっさりと全日本プロレスを離脱したのは、

ジャイアント馬場氏の夫人である元子氏との
経営面などを巡っての
確執があったからだともいわれています。

まじめな性格の三沢選手は、
どうしても自分の理想や信念を
曲げることができなかったのです。

この新団体旗揚げにも、
三沢選手を慕って多くのレスラーが追随したのです。

先にも述べましたが、
自分の信念を曲げて組織に残るか、

それとも辞めるか、
組織に属する者の選択肢は2つに1つです。

三沢選手としては、
ジャイアント馬場氏の亡き後としては、
これ以上組織に縛られる必要はありませんでした。

実はこの記事を書いている僕自身も
リストラされた経験・自分で起業した経験などがあり

この時の三沢選手の気持ち
少しは分かる気がします。

三沢選手の葬儀には、
2万5千人ものファンが列席したことでも、

彼の人望の厚さ、
偉大さがうかがえます。

プロレスラーに限らず、
私たちも見習いたいところですよね。

それでは、
懐かしの三沢光晴選手の活躍を振り返りましょう。

まずは2代目タイガーマスク、
1984年に行われたタイガーマスクとしての記念すべきデビュー戦、
ラ・フィエラ選手との試合です。

次は、マスクを脱いだ
三沢光晴選手の試合。

1999年、川田利明選手との
三冠ヘビー級王座防衛戦です。

勝敗の行方は抜きにして、
ライバル同士である2人の熱い闘いを、
ゆっくりとご覧ください。

まとめ

三沢タイガーマスクの特徴は、
大型のヘビー級レスラー相手に
真っ向から挑んだということであり、

初代タイガーでは
まねのできなかったことです。

マスクを脱いで、
ノアを設立した当時には、

すでに三沢選手の体は
日常生活にも支障をきたすほど
ボロボロでした。

それでもファンのために、
まさに「最期まで」休まず試合に出場し、

文字通り「死闘」を繰り広げてきたのです。

その上、選手にもよく気を遣い、
社長業もきっちりとこなしてきました。

寡黙でまじめな三沢選手の人柄がうかがえます。

プロレス一筋の人生を、
太く短くさっそうと風のように
駆け抜けて行った三沢光晴選手。

カッコよすぎですよね。

三沢光晴選手の生き様、闘いぶりは、
今でも僕だけじゃなく多くの人々の脳裏に焼き付いて、
心の中で生きているのです。

最後に

三沢光晴さん、
僕に生きる勇気を与えて頂き、
本当にありがとうございます!

ご冥福をお祈り申し上げます。

最後までお読み下さり、
ありがとうございました。

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浪速のドスカラス(管理人)

兄がプロレスを観ていた。その頃、空前のタイガーマスクブームだった。臨海スポーツセンターまでチャリで5分で行けた。初代UWF・闘魂三銃士・三沢VSハンセン…僕はなんて恵まれた時代に生まれたのだろう。当時のプロレス熱を現代に少しでもお伝えしたく筆を執りました!